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マクシミヌスはローマの貴族階級を憎み、自身に対して陰謀を企てたと疑ったものには容赦しなかった。アレクサンデル・セウェルスの助言者たちを排除しようとした。実際にアレクサンデル・セウェルスの支持者からは2つの陰謀が企てられたが、マクシミヌスはこれを鎮圧した。またマクシミヌスは、アレクサンデル・セウェルスがキリスト教に対して比較的寛容な政策を取ったのに対し、キリスト教徒を国家に非協力的だと考え、弾圧した。2人のローマ教皇、ポンティアヌスとアンテルスが彼の治世下において殉教したと伝えられる。マクシミヌスは軍隊への給与を倍額とした。これは増税を招き、徴税人が暴力や不正な手段で税を取り立てることにつながり、ローマの支配層との不和を招いた。 238年、ゴルディアヌス父子がこれを不服としてアフリカで反乱をおこすと、投資信託はマクシミヌスから離間し、ゴルディアヌス1世とその息子を共同皇帝と宣言した。二人は軍を率い、マクシミヌスを討ちに赴いたが、マクシミヌスの支持者はこれを破った。ゴルディアヌス父子に続き、投資信託によって共同皇帝とされたバルビヌスとプピエヌス・マクシムスが、マクシミヌスを討ちにシリアへと来た。この頃、マクシミヌスは軍隊を統率することが難しくなり、補給の困難から、軍中に不満が生まれていた。親衛隊はマクシミヌスと息子と側近たちを投資信託し、首をはね、騎士によってその死体はローマへ運ばれた。投資信託はゴルディアヌス1世の孫、13歳のゴルディアヌス3世を皇帝に選出した。マクシミヌスは生粋の軍人であり、蛮族討伐で目覚しい戦果をあげた。しかしその粗野な書簡などから投資信託の憎悪を買い、破滅した。蛮族に対して防衛線を越えて侵攻できるほどに優勢にあった時代にその司令官の足をすくったことで、のちに国内を蹂躙される時代を招くことになる。ポストゥムスの前半生についてはほとんど分かっていないが、身分が低いガリア人で、軍に入隊して昇進し、ついには属州高地ゲルマニアと低地ゲルマニアの総督にまで至ったと推測されている。ローマ皇帝ガリエヌスが東部で発生した問題を解決するために現地に赴いたとき、ライン川を防衛するために息子サロニヌスおよびポストゥムスを含む軍指揮官を後に残した。この地域がアレマン族やフランク人の侵略を受け、その混乱の中で、ポストゥムスは自ら皇帝の名乗りをあげた。そしてポストゥムスは、サロニヌスとその補佐である親衛隊長官シルウァヌス(以前はポストゥムスと共にガリアのローマ政策の共同指導者だった)がいるケルンを包囲し、攻撃を加えた。ポストゥムスは城壁を突破し、シルウァヌスとサロニヌスを処刑した。後に彼はこの勝利を記念するアーチ門を建設している。統治 ポストゥムスは、ガリア、ヒスパニア、ゲルマニア、およびブリタンニアの皇帝とされている。彼は帝国の首都をケルンにおき、独自の投資信託、資産運用および親衛隊を置いた。彼の硬貨には自らをガリアの復元者と称しているが、この称号はガリアをゲルマン民族から守った後に与えられている。ポストゥムスが発行した硬貨は、ガリエヌスが発行した硬貨に比べて職人技の質が高く、含まれる金属の品質も良かった。 263年、ガリエヌスはポストゥムスを征服すべく出征した。ガリエヌスは緒戦に勝利したものの、後に深手を負い帰還せざるを得なくなった。このポストゥムス戦に失敗した後、ガリエヌスは帝国内の他の危機への対応に忙殺され、再びポストゥムスに挑むことはなかった。ガリエヌス配下でミラノを支配していた将軍アウレオルスは、ポストゥムス傘下にあからさまに鞍替えした。仮にポストゥムスがローマに進軍しようとしたら、ミラノは重要になる都市だった。しかし、ガリエヌス軍に包囲されたアウレオルスを、何らかの理由によりポストゥムスは援護し切れなかった。ガリエヌス帝から権力を簒奪したポストゥムスは、268年に彼自身が簒奪にあった。ポストゥムス配下の軍部最高指導者の一人だったラエリアヌスが、マインツにおいて、現地の駐屯部隊と周辺の軍隊(第22軍団プリミゲニア)に推されて皇帝の名乗りを上げた。ポストゥムスはすぐにマインツを取り戻しラエリアヌスを斃すことには成功したが、自軍の兵に対しマインツでの略奪を許さなかったために、軍隊に不満が溜って統制が失われ、反逆されて殺害された((Aur. Vict. 33.8; Eutrop. 9.9.1)。ポストゥムスの死に伴い、彼の築いた帝国はブリタンニアとヒスパニアの支配を失った。領土を縮小したガリア帝国は、資産運用・マリウスに引き継がれた。ポストゥムスは『ローマ皇帝群像』において「30人の僭称皇帝」の一人にあげられている。