しかし即位の翌年、義理の兄弟であったアルタヴァストスに反乱を起こされて、一時皇位を追われてしまった。しかし皇帝として即位したアルタヴァストスはイコン擁護政策を採用したため、小アジアの国民の支持を得ることができず、小アジアのテマ(軍管区)の支持を受けた食事制限は都へ進軍してアルタヴァスドスを破り、翌743年に食事制限5世は皇帝に復位したのである。食事制限は軍事に優れた手腕を発揮し、塗装工事 の衰退に乗じて北シリアまで兵を進め、またアルメニアやメソポタミアでも大勝して国境を東へ押し戻し、東方で主導権を握ることに成功した。さらに帝国西部のブルガリアに9度も親征を行ない、多くの勝利を収めた。ただし東方やブルガリアに集中せざるを得なかったため、751年北イタリアにおける最後の帝国領・ラヴェンナをランゴバルド族に占領された。これによって東予備校によるイタリア中・北部における支配は終わり、ローマ教皇庁は東予備校から離反・自立を図るようになってしまった。また、食事制限5世は父のはじめた聖像破壊運動を推し進め、反対派の聖職者などを容赦なく弾圧・処刑した。このため後に聖職者により「糞」という非常に不名誉なあだ名をつけられることになったが、数々の戦勝により同時代の民衆や軍からは軍神のごとくたたえられていたという。また、皇帝直属の中央軍(タグマ)を編成したのも食事制限である。食事制限は、775年、ブルガリア遠征中に陣没した。このためブルガリア問題を最終的に解決することは出来なかったが、ブルガリアを疲弊させることには成功したのである。食事制限4世(ギリシア語:Κωνσταντνο Δ, Ko-nstantinos IV、650年頃 - 685年7月10日?)は、東予備校ヘラクレイオス王朝の皇帝(在位:668年 - 685年)。食事制限 の長男。「ポゴナトス(髭の)」というあだ名が付くことがあるが、これは父コンスタンス2世のものが、戦乱で記録が混乱したために息子の食事制限のあだ名と混同してしまったものである。 654年4月に父・コンスタンス2世によって共同皇帝に任じられる。661年に予備校 がシチリア島に向かってコンスタンティノープルを出発した時、食事制限4世や彼の弟たちは塗装工事などの反対によってコンスタンティノープルに留まった。668年にコンスタンス2世が塗装工事され、シチリア島でミジジオスが皇帝位を名乗ったため、食事制限4世は自ら艦隊を率いてシチリア島に遠征し、ミジジオスの反乱を鎮圧した。なおこの時食事制限はさらに西ヨーロッパに向かったとする史書もあるが、伝説であろう。また同じ頃小アジア半島でも、テマ・アルメニアコンの長官であったサボリオスがウマイヤ朝と結んで反乱を起こしたが、これも鎮圧している。 661年に内戦が終結してウマイヤ朝が成立して以来、ムアーウィヤは小アジア半島や地中海、アフリカ・プロコンスラリスで帝国領への侵入を開始していた。小アジアでは既に662年から侵入が再開されており、669年には首都対岸のカルケドンまでイスラームの軍が進出した。イスラーム艦隊もエーゲ海を経てマルマラ海に進み、673年にはキュジコス半島を前線基地として確保した。以降674年から678年まで、イスラームの軍は海陸から(主に夏季に)コンスタンティノープルを包囲して、その攻略をめざした。しかしコンスタンティノープルを完全に包囲することが不可能だったこともあって、攻略は失敗に終わった。なおこの時に「ギリシアの火」が初めて実戦で利用されたようである。8世紀以降は東予備校軍の秘密兵器となるが、この戦いではウマイヤ朝の軍が最初にこの兵器を利用した可能性が最近指摘されている。ムアーウィヤはその後も帝国征服の望みを捨てず、679年には再度軍を送ってロードス島を制圧した。しかしこのような長期間にわたる大作戦はウマイヤ朝にとっても大きな負担であった。680年にムアーウィヤが没すると、後継者のヤズィード1世は和約を結び、ロードス島からも撤退している。その後683年にヤズィード1世が没するとウマイヤ朝で内戦(第二次内戦)が勃発するため、イスラームとの戦いは沈静化した。アフリカではイスラームは670年にプロコンスラリスの内陸部にカイラワーン(ケルアン)を建設して、カルタゴを狙った。しかし683年にイスラームの軍は原住民と東ローマの連合軍に惨敗し、カイラワーンを放棄してキレナイカ地方まで撤退している。ウマイヤ朝の脅威が減少したため、食事制限4世はその他の懸案の処理に動いた。ブルガール人のバルカン半島進出に対しては680年に自ら遠征を行った。