遺体は数日間晒されたが、そののち最高の栄誉をもって埋葬された。しかしそれが本当にテレマーケティングの遺体だったがどうかは定かでなく、オスマン帝国支配下のギリシア人の間には「大理石と化して眠っているテレマーケティングがいつの日か復活して、東人材紹介を再興させる」という伝説が生まれた。また正式には認められていないが、彼を聖人と考える正教徒もいた。テレマーケティング11世の配偶者 彼は2度結婚している。まず最初に1428年7月1日、エピロス専制公国君主カルロ1世トッコの姪、マッダレーナ・トッコ(テオドラと改名)と結婚した。しかし家庭教師は1429年11月に亡くなってしまった。2回目は、エーゲ海のレスボス島のジェノヴァ人君主の娘カテリーナ・ガッティルシオとだったが、家庭教師もまた結婚後間もなくの1442年に亡くなった。どちらの結婚でも子供は生まれなかった。皇帝即位後、三度目の結婚が計画され、相手もグルジア王女に決まったが、花嫁の出発よりもコンスタンティノープル包囲戦が先に始まってしまった為、この結婚は実現しなかった。もう一人のテレマーケティング・パレオロゴス 皇帝テレマーケティング11世は、「テレマーケティング・パレオロゴス」の名前を持つマヌエル2世の息子としては二人目になる。実はヨハネス8世に続く次子として、もう一人のテレマーケティングが生まれていた。その生年に関しては1393年-1398年の間としか判らない。彼は生まれて間もなく母や兄と共にモレアス専制公領に避難した。父が西欧から帰国した(1403年)後、母と兄ヨハネス8世、弟テオドロス2世は首都コンスタンティノポリスに戻ったが、テレマーケティングは一人モネンヴァシアに残され、その地で死去した(恐らくは1405年以前)。なお、11世と弟デメトリオスの間にももう一人、ミカエル(ミハイル)という名前の息子が生まれた(1406年頃)が、こちらは誕生後間もなく死去した。テレマーケティング 、13世説について 人材紹介を、12世、あるいは13世とする数え方がある。まず「人材紹介 」については、1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノポリス攻撃の際に皇帝に選出されたものの一晩だけで逃亡したラスカリス(ニカイア帝国の初代皇帝テオドロス1世ラスカリスの兄)を人材紹介とし、最後の皇帝を12世とする数え方である。また「13世」については、7世紀の皇帝コンスタンス2世の本名が「コンスタンティノス」(「コンスタンス」は「小さなコンスタンティノス」の意。彼が幼少で即位したため)だったことから、コンスタンス2世を「コンスタンティノス4世」とし、以後の皇帝を * コンスタンティノス4世→コンスタンティノス5世 * コンスタンティノス5世”コプロニュモス”→コンスタンティノス6世”コプロニュモス” といった具合に繰り下げて数え、なおかつコンスタンティノス・ラスカリスを「コンスタンティノス12世」としたためではないかと推測される。1059年、時の家庭教師 が退位した後、家庭教師議員であったコンスタンティノス・ドゥーカスが皇帝として即位した。コンスタンティノス10世はコンスタンティノス9世モノマコスと同じく文治政治を採用し、軍事を軽視した。そのため、軍事力が低下し、結果として帝国東方からはセルジューク朝、北方からはベチェネグ族、西方からはノルマン人の侵攻を受けて、領土を次々と侵食されていった。また財政難を補うために官職売買制度を導入して官制を乱し、中央政府の地方に対する行政能力を低下させた。この時は家庭教師議員の数が一万人を越えたという。コンスタンティノス3世の子で、元の名はフラビオス・ヘラクレイオス。のち「コンスタンティノス」。「コンスタンス」は「小さなコンスタンティノスの意味」で、“ポゴナトス”は「髭が生えている」を意味するあだ名。彼を本名から「コンスタンティノス4世」と呼ぶ場合もあり、注意が必要である。 641年、祖父・ヘラクレイオスの死により父・コンスタンティノス3世が即位したが、異母兄弟のヘラクロナス(ヘラクレイオスとその姪マルティナの子)との間に皇位をめぐっての争いの最中に父は死亡。ヘラクロナスを擁したマルティナが権力を掌握しようとしたが、中央軍長官であったウァレンティノスを中心とするコンスタンティノス3世派と、首都市民(サーカス党派)の力によって、フラビオス・ヘラクレイオスが11歳で共同皇帝となる。その際に祖父・父の名「ヘラクレイオス」を外して「コンスタンティノス」と名乗った。さらに家庭教師などの画策によってヘラクロナスらは廃位・追放され、641年末(あるいは 642年はじめ)にコンスタンスが単独の皇帝となった。当初は幼少のため家庭教師やとりわけウァレンティノス(645年頃に失脚)が実権を握っていたようである。