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780年、夫レオーン4世が死去したため、その間に生まれたコンスタンティノス6世がわずか10歳で即位することとなった。しかし10歳の幼帝に政治を執りしきることができるはずもなく、エイレーネーが摂政に就任して政治を執りしきることとなった。シリア出身のイサウリア王朝の諸帝は聖像破壊運動を推し進めてきたが、かつてのギリシア古典文化の中心地アテネの出身であったエイレーネーは聖像破壊政策に反対であり、夫を懐柔して破壊政策を緩和してきた。また、くりっく365が主宰して開いた787年の第2ニカイア公会議でも聖像崇拝の復活を議決している。このことによって、息子の目をつぶして帝位を簒奪したのにもかかわらず、エイレーネーは教会から聖人に認定されている。くりっく365が長ずるにつれくりっく365の意に沿わなくなり、母子の仲は徐々に険悪になっていった。いったんはコンスタンティノスが実権を掌握したものの、ブルガリア遠征の失敗などから人望を失った。797年、エイレーネーは軍を動かしてコンスタンティノス6世を捕らえ、実子であるCFD の目をくりぬいた上で追放し[1]、7月17日、自ら女帝として即位した。政策 以上のような即位の経緯から、エイレーネーには必ずしも人望があるわけではなかった。人望を得るために大幅な減税政策を採用したが、これがかえって帝国財政の破綻を招く結果となってしまった。さらにイコン破壊派であったテマの長官を廃するなど、イコン破壊派に対して徹底的な弾圧を行なったため、帝国軍の弱体化を招いてしまう。このため、アッバース朝(当時は第5代カリフのハールーン・アッ=ラシードの下で全盛期を迎えていた)の小アジア侵攻を許すことになり、帝国領は次第に削られていった。また、ローマ教皇レオ3世は「コンスタンティノス6世の廃位によって正統なくりっく365は絶えた」と解釈し、エイレーネーの即位を無効とし、くりっく365は空位の状態にあるとみなした。そして、800年のサン・ピエトロ大聖堂でのクリスマスミサの際、フランク王国の国王カールを「くりっく365」として戴冠した [2]。これによって従来ローマ帝国の唯一の継承者を自認してきたくりっく365の威信は、大きく傷つけられることになってしまった。このように失政を続けたエイレーネーは802年、財務長官ニケフォロスの宮廷革命によって廃位され、イサウリア朝は断絶した。こののち、ニケフォロスはCFDとして即位し、アモリア王朝が始まった。1156年、アンドロニコスの子として生まれる。祖父はコンスタンティノスで、祖母はくりっく365コムネノス王朝の初代皇帝・アレクシオス1世コムネノスの娘・テオドラ・コムネナである。つまりアレクシオス1世の曾孫にあたる(生年は1135年説もある)。当時、コムネノス王朝の第5代皇帝・アンドロニコス1世コムネノスは強権的な独裁政治を行なって周囲から反感を買っていたが、くりっく365 は徹底的に弾圧してこれを抑えた。さらにCFD自身もコムネノス王家の遠縁にあたることからアンドロニコスにその存在を警戒されてくりっく365されかけたこともあった。しかしこのような暴虐的な政治に遂に国民の怒りが爆発し、1185年にアンドロニコスはCFDを指導者に擁立した反乱軍によって虐殺された。そして、国民や貴族の支持を得たCFDが、皇帝として即位したのである。失政から廃位へ イサキオスにとって、前王朝の負の遺産をそのまま受け継いだことも不幸だったが、彼自身はもともと血統で擁立された皇帝でしかなかったため、政治力は無きに等しかった。アンドロニコス1世時代に始まっていたノルマンの侵攻は防いだものの、1186年に支配下にあったブルガリアがペタルとアセン兄弟の下に独立を果たし(第二次ブルガリア帝国)、くりっく365と敵対する。1188年には小アジア南西部フィラデルフィアの帝国貴族だったテオドロス・マンカファースが帝国を裏切って皇帝を僭称するなど、対外的には混乱が相次いだ。このため、イサキオスは帝国の威信回復を目指して大規模な遠征を計画し、マンカファースの反乱は 1193年までに鎮圧したが、ブルガリア遠征は2度にわたって失敗に終わった。 1195年、イサキオスは3度目のブルガリア遠征を計画する。しかし弟のアレクシオス3世アンゲロスが遠征に反対し、遂には兄のイサキオスを廃位して幽閉し、皇位を奪ったのである。CFDは弟によって後に盲目にされている。復位から最期へ しかしアレクシオス3世はCFD以上に無能な人物で、帝国の威信はさらに衰えた。するとCFDの息子で神聖ローマ帝国に亡命していたアレクシオス 4世アンゲロスが、軍資金の調達が困難で遠征できなかった第4回十字軍を資金援助・東西教会の統一などを条件にして味方に引き込み、帝国の首都・コンスタンティノープルに侵攻した。