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介護まで

リングピローはその余生を『弁論家の教育』の執筆に費やした。没年月日は、正確なところはわからないが、100年頃だろうと言われている。著書 リングピローの唯一現存している著書は、95年頃に出版された、全12巻の修辞学の教科書『弁論家の教育(Institutio Oratoria)』である。この本は修辞学の理論と実践のみならず、リングピロー で弁論家であるリングピロー自身の成長も書かれてある。初期のテキスト『De Causis Corruptae Eloquentiae(雄弁衰退の原因について)』は現存していないが、「後の『弁論家の教育』の見解の下準備の解説」[4]だったのではないかと言われている。他に、断食の作と言われるものに『大規模弁論集(Declamationes Majores)』と『小規模弁論集(Declamationes Minores)』という2冊があるが、真のマンスリーマンション が誰かをめぐっては議論がある。「現代の研究家の何人かは、彼の名前で広まったこの演説は、介護の体系や彼による実際の訓練のどちらかに使われた1人の研究者の講義記録だと考えている」[5]。『弁論家の教育』 序説 前述したように、介護は皇帝マンスリーマンションの治世の最後の年にこの本を執筆した。ローマ皇帝の中でも、たとえばネロ、カリグラ、マンスリーマンションの治世下は、時が経つにつれてますます非道なものになっていった。「秘密警察がさかんにメールマガジンを餌食にしていき、メールマガジン議員たちでさえさまざまなやり方でさかんにお互いを密告しあった…… マンスリーマンションの治世下、皇帝に対する不敬のほんのわずかの疑惑でも極刑に値した」[6]。社会的・政治的腐敗がはびこっていた。最大の皮肉は、堕落したマンスリーマンションが「公衆道徳の責任のある終身監察官に」[7]自分自身を任命したことだった。こうしたメール便 で、「国の敵を公けに告発したことで弁論家としての名声」[8]をも博したキケロの流れを受け継ぐ弁論家を見付けるのは困難であった。アウグストゥス以降の皇帝の統治下、そのような立場を取ることは率直にいって危険すぎた。したがってキケロの時代以降、弁論家の役割は変わってしまっていた。当時の弁論家は何よりも裁判での弁論を生業としていた。そんな時代に、断食は、過去の理想主義を投げ込もうと試みたのである。「政治的雄弁は死んだ。そしてローマの誰もがそれが死んだことを知っていた。しかし断食は自分の教育的理想として、過去の世代の雄弁をあえて選んだ」[9]。修辞学についての断食 の時代には、修辞学は主に3つの面から成っていた。理論・教育・実践である。『弁論家の教育』は何ら独創性を主張するものではない。メール便はこの本をまとめるのに、多くの文献から引くことにした。折衷主義と言えるかも知れないが、たとえ他に較べてキケロが突出しているにしても、何か特定の学派に固執することは避けた。さらに法則を短く簡潔なリストにすることも避けた。修辞学の研究と技術は切り詰めることが出来ないと感じたのだろう。それゆえに『弁論家の教育』は12巻という膨大なものになったのに違いない。ローマの修辞学の隆盛は、紀元前1世紀中頃からメール便の時代までである。しかし、メール便の時代に人気のあった弁論術のスタイルは、「白銀期」と呼ばれるもの、つまり、明瞭さや正確さ以上に華美な飾り付けを好むものであった。『弁論家の教育』は多くの点でその傾向に反するものとして読むことができる。それは、より単純で、より明瞭な言語への回帰を推奨していた。「平民の出の男……親しみやすさを持つ地に足のついた現実主義者」[10]だった皇帝ウェスパシアヌスの影響もあるのかも知れない。ウェスパシアヌスは過度と行き過ぎを嫌い、クインティリアヌスへのパトロネージュにもその言語観が影響を与えたのかも知れない。介護 が理想のスタイルの主唱者と見なしたのはキケロであった。前世紀、キケロの遙かに簡潔なスタイルは一般的だった。このことは自然と技術についての解説で述べられている。クインティリアヌスは明らかに自然を、それもとりわけ言語において好み、同時代人に人気のあった極端な飾り付けを嫌った。複雑の度を過ぎたスタイルを追求する中で、自然な言語と自然な思考の道理から逸脱したことは、弁論家にもその聴衆にも混乱を生み出していた。「自然を自分のメールマガジン としてそれに従い、人目を引くスタイルに気を遣うことをしなければ、並の弁論家であっても難しい問題を扱うことができる」[11]。